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 びくりと――英美里ちゃんの姿が震えた。

乱れ、驚きと羞恥心の針が振り切ったような顔をして、そして勢いよくばちんと――かき消えた。

 消したのだ――自分の姿を。

 僕は驚きつつも、一方で冷静な自分がいることにも気がついていた。

想像していた反応のうちの一つだったからだ。

…どうしてですか

「好きだから」

 僕の声に対して声だけが返ってくる。

 英美里ちゃんの姿は現れない。

「嘘、……辞めてください。そんなの嘘です」

「嘘じゃない。僕は、君を助けたいんだ」

「好きでもないのに勝手なこと言わないでください!」

「どうして好きでもないなんて、言うんだよ」

 先ほどまで座っていたところに、英美里ちゃんの姿が再び現れた。

俯いていた。

怒ったような、悲しいような、そういう表情だった。

「先輩が好きなのは私じゃない。透明人間に好きな声と体をあてがって、楽しんでるだけじゃないですか」

「そんなこと、僕は、君のために、」

「私のためにしてくれたことだって、それは、分かりますよ。分かりますけどでも、……むなしくなるんです」

「あのさ、僕、思うんだけど。化粧みたいなもんじゃないか。誰だって綺麗になりたいと思うし、綺麗な声になりたいと思う。それはきっと、たぶん、皆に好かれたいって、潜在的に誰もが思ってるからだ。そのための努力をすることって、そんなにむなしいことかな。誰もが素顔を見せなくちゃいけないのかな。そうやって見て欲しい自分を作ろうと頑張ることって、本当の自分じゃないのかな」

「分かってます。分かってますけど、でもむなしくなるんです。仕方ないんです」

「むなしいと、つきあえないの?」

 がたん――椅子を蹴飛ばして、英美里ちゃんは立ち上がった。

そういう音と映像が、僕の世界には描き出されていた。

「じゃあ先輩は、どんなに不細工でも化粧して綺麗だったら好きになれるってことですか!?」

「どんなものを好きになれるとかなれないとか、記号で話をするなよ。問題なのは、俺が誰を好きで君が誰を好きかってことじゃないのかよ」

 彼女は、片手で顔を隠し、机にもう片方の手をついた。

支えなければならないのは、二十一グラムの体重よりももっとずっと重いものだ。

「どうして……、やめてください。私は、誰かに好かれるような人間じゃないんです」

 彼女が、顔を上げた。

その目を、頬を、涙が伝った。

「私がどれだけの恐怖を抱えて今ここに存在してるか、先輩に分かりますか!? 分からないですよね! だって先輩は透明人間じゃないから! この世界から消えてしまいたいだなんて思ったこともないし、いつ世界から切り離されてしまうのかなんてことも考えたことない、平和な、幸せな人間じゃないですか! 押しつけないでください! 私は恐いんです。この世界が恐いんです。もう散々この世界には裏切られ続けてきたんです。その上さらにリスクを冒すようなこと、させないでください。これ以上世界の幸せな部分を私に見せないでください。失う恐さを知らない先輩には分からないかもしれないけど、私は、先輩と一緒にいるだけで、いつ裏切られるかと思うと恐くてたまらないんです」

「どうして僕が、君を裏切らなくちゃいけないんだ」

「じゃあ先輩は、透明人間と結婚できると本気で信じているんですか。それか、もしも私が元に戻ったら? 不細工な上にデカ女で少しも可愛くない卑屈な私を、本気で好きになれますか? 自殺しようとするような精神不安定な女を。幸福を差し出されても全力で突っぱねてしまうクズ女を、先輩はそれでも、好きだと言えるんですか?」

「言える」

「出会い系で見せられた写メが可愛かったからって会いに行ったらとんでもない不細工が出てきてもいいって言うんですか!」

「だから記号とか例題で話をするなって言っただろ! いつ僕と君が出会い系で会ったんだよ! もしも君のことを何も知らない状態で会ってたら、好きになってたかなんて分からないだろ!? 君のことを知った今だから、好きだって言ってるんだよ! 顔とか声とか透明だとか、そんなの関係ないだろう! 僕はそうやっていろんなことで傷ついてる君を、守りたいんだよ!」

 彼女はぐいっと涙を拭った。

ぎりっと奥歯を噛みしめて僕を睨んだ。

「嘘。……嘘、嘘、絶対に嘘。実物の私を見てもないのにどうして好きだなんて言えるんですか。良かったですね、透明人間で。好きな画像と声を当てはめて、いくらでも自由に想像できるんですから。私は先輩の顔を見られなければ、触れることだってできないのに!」

「確かに触れないけどさ。本当の君がどこにいるのかなんて、分からないけど、でもっ。今君が擁護しようとしてる醜い自分って奴は、見て欲しい自分なのかよ」

「そんなの、」

「それが本当の自分でいいのか? 透明になって、初めてこの部室にきたあの日、君は言っただろ。元に戻りたくなんてないって! 透明になってしまった自分に後悔はないって、言ってたじゃないか! 嘘をついてるのは僕じゃない。君のほうだ。言えよ。君が見て欲しいのは、どっちの自分なんだよ。醜い自分をそんなに俺に見せたいのかよ! 違うんじゃないのか!」

 英美里ちゃんの表情がくしゃっと歪む。

 一体その表情を作るために、どれだけのファクターを制御しているのだろうか。

考えるだけで気が遠くなる。

僕らが当たり前のようにしているその表情を、声を作り出すために、彼女は途方もない努力をしたのだ。

 どうして、それが報われちゃいけない?

 どうしてその努力を祝福したいと願っちゃいけない?

 英美里ちゃんは、ごしごしとワイシャツの袖で涙を拭き取ると、うつむき、悄然と呟いた。

「先輩は私を裏切らないかもしれません。でも私は、先輩を裏切らない自信がないんです」

「どういう、」

「いつ消えてしまうかなんて分かりません。いつ元に戻るかも分かりません。そうなったとき、私は先輩を裏切ります。好きになってくれた人を置いて、今ここにいる私はいなくなってしまうんです。そういう不安定な場所に私はいて、いつここから落ちるか分からなくて、だから、私は人を好きになったりしちゃ、いけないんです」

「そんなことない。誰かを好きになっちゃいけない人なんて、いていい訳がない。さっき言っただろ、潜在的に、人は誰もが好かれたいって思ってるって」

「それは幸福な人の理屈です。ただの、何の意味もない正論です。私には絶対に当てはまりません。好きになるのも、好かれるのも、どっちも私には荷が重いんです」

「一番最初に、助けてって、言ったじゃないか」

 僕は立ち上がった。

僕の後ろで椅子が倒れる。

「今も、辛いって。荷が重いって。……どうして助けてって言ってくれないんだよ。どうして荷が重いなら下ろそうとしないんだよ。助けるって言ってるんだよ! その荷を少しでいいから僕に分けてくれって言ってるのに、どうしてふさぎ込もうとするんだよこの分からず屋!」

 僕は――自分の無力さに憤慨した。

今すぐその細い彼女の腕を掴んでやりたいのに。

僕の生身の腕は、彼女の腕に触れることさえできないのだから。

「偽物なんですよ」

 英美里ちゃんは、自分自身を呪う老婆のような醜悪さを表した。

泣き腫らした顔で、世界の全てを憎もうとするかのように。

「ここにいる自分が本物であるなんて保証、どこにもないんですよ。その恐怖が分かりますか。どうしたらいいか分からなくて、好意に答えるのも間違いなんじゃないかって、そういう想像したら余計に分からなくなって、ぐちゃぐちゃになって、」

「だから、助けるって言ってるだろ」

 僕は声に力を込める。

今ここで僕が引いたら、一体誰が彼女を助けられると言うのか。

「誰かを助けたいだけなんじゃないんですか。別に私じゃなくても良かったんだ。先輩は偽善者だ。先輩は、ただ誰かを助けたいだけで、たまたま都合のいい私が現れたから、」

「じゃあ君だって、別に助けたのが僕じゃなくてもよかったっていうのか。偽善じゃない僕以外の人間に助けられたほうが良かったっていうのか」

「そんなわけないじゃないですかッ!」

 ビリッ、と――僕の全身に、風がぶつかったような気がした。

「助けてくれたのが先輩でっ! 嬉しいに、決まってるじゃないですか……!」

 英美里ちゃんの叫び声だった。

それが、僕の体にぶつかったのだ。

 たった二十一グラム――けれど、そこに確かに彼女はいるのだ。

「先輩じゃなかったら、私は、声や体をもらうことなんてできなかった……。ほんとに、嬉しかったです。先輩が、私のためにいろんなことを考えて、いっぱい勉強して、……嬉しかったです。嬉しくなかったわけ、ないじゃないですかっ」

 英美里ちゃんが、僕の体に駆け寄った。

拳を僕の体に打ち付け、髪を振り乱して泣きわめいた。

その衝撃、体温、その他様々な、彼女がそこにいるのだと証明する物理現象の全てを、僕は一つとして感覚することができなかった。

 これほどまでに、自分の無力さを感じたことなんて、なかった。

「今更、先輩以外の人を好きになれるわけないじゃないですか!」

「僕もだよ。……僕もなんだよ。今更、君以外の人を好きになれるわけ、ないんだ。だからお願いだよ。僕は英美里ちゃんと一緒に、生きていきたいんだ」

 彼女は泣いた。

 僕の頬にも、涙が伝った。

 彼女の体温を僕は感じることができないけれど、いつか生きている内には、必ず彼女を抱きしめてやると思った。

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