僕と木戸はびくりと飛び上がった。

 音の方を見た。僅かに、扉が開いていた。

 僕は駆け寄って廊下を見る。けれど、誰もいない。

 木戸が僕の背中に尋ねた。

「な、なんだよ。お前、ちゃんと閉めなかったの?」

「引き戸が勝手に動くわけないだろ」

「この旧校舎、建て付け悪いんじゃねえの」

「引き戸が勝手に動くほど悪いわけねえだろ」

 僕と木戸は顔を見合わせる。

 今までにも先輩や同級生にいたずらをされたことはあったけれど、今回もそれと同じ類いなのだろうか。

 木戸も同じことを考えたらしく、「四谷に電話してみるか」と携帯で同級生のアドレスを探し始める。

 そのとき――かたっ、と背後で音がした。

 僕と木戸は、もう、科学原理主義者にあるまじき恐怖心を抱え込んで、首を動かすことすらままならなかった。

 かたっ、かたっ、かたっ――背後で音がする。聞き慣れた音だ。

「な、なあ。最近の幽霊は、キーボード打つのかな」

 木戸があほなことを呟く。

そのせいで、僕はかえって冷静になった。

「幽霊なんて、んなもんいるわけ、」

 振り返り、そして僕は見た。

 机の上に置いてあるデスクトップパソコンに接続しているメカニカルキーボード――そのキーが、ひとりでに押し込まれていく。

 僕は木戸の腕を掴んで尋ねた。

「な、なんだよ」

「お前、キーボードになんか仕込んだ?」

「そういうギミックは四谷の仕業だろ」

「ちょっと四谷に電話してみてよ。俺、調べる」

「マジ? お前、度胸あんなー」

 喋っていると、二人ともだんだん冷静になってきた。

目の前でキーボードがひとりでに動いているのも、何か仕掛けがあるに違いないという気になってきている。

 僕はキーボードに近づく。

 木戸が背後で「あ、もしもし。四谷、今、大丈夫?」なんて言ってる。

「うん、いやいま部室なんだけどさ。お前、キーボードになんか細工した? うん、知らない? おい、すっとぼけんなよ。お前らなんかイタズラして俺らを驚かせようと、……ほんとに知らないの?」

 僕はディスプレイを見て、固まった。

「おい、四谷知らないって。おい、……どした?」

 木戸が、僕の背後からディスプレイをのぞき込む。

 キーボードの動きは止まっていた。

 ディスプレイには、こう、書いてあった。

『助けてください。とうめい人間になってしまいました』

 僕と木戸は、顔を見合わせる。木戸が呟いた。

「これ、イタズラ、だよな」

 かたかたっ、とキーボードが動く。

 一つ一つキーを押していく拙さに若干いらっとしたものの、僕らの視線はディスプレイに表示されているテキストエディタに吸い込まれる。

『イタズラじゃありません。私はあの服の持ち主です』

 僕は思い切って、部室の空気に向かって声を投げる。

「あなたの名前を教えてください」

 数秒、間があった。

 僕はなんとなく、その透明人間とやらが、ためらったのかもしれないと思った。

 その矢先、キーボードがかたかたと動きだし、そして文字が刻まれた。

『私は一年生の、佐々木英美里です』

 僕と木戸は、再び顔を見合わせる。

「お前、知ってる?」

 僕の問いかけに、木戸は首を横に振った。

「ごめん、俺たち君のことを知らないんだけど、えっと、……マジで言ってんの?」

『マジです』

「な、なんで透明に?」

『私、』

 そこで、五秒くらいキーボードの動きが止まった。

 そしてまた、動き始める。

『自殺しようと思ったんです』

「どうして」

 まだ入学して二週間くらいしか経っていないだろうに。

 突然出てきた物騒な言葉に僕は小さく身震いした。

『中学のとき、ずっと、いじめられてました。保健室登校で頑張って勉強して、この学校に入って、やっと救われると思ったら、私をいじめてた奴も、同じ学校だって、分かったんです』

 木戸が椅子を持ってきて、座った。

 僕は目の前のパソコンを使う専用の椅子に座る。

 完全に、二人して恐怖心はどこかに吹っ飛んでしまっていた。

「それで、自殺しようと?」

『はい。この入学してからの二週間が、地獄の続きだって分かったとき、もう耐えられないって、思いました』

「それで、どうして、」

『今日、屋上から飛び降りようと思って、下校時刻になってからトイレにこもって、屋上の鍵をピッキングして、忍び込みました。でも、勇気が出ませんでした。どうしても飛び降りられなくて、そしたら、』

「そしたら?」

『消えちゃいたいって思った瞬間、風が吹いたんです。そうしたら、私の服も靴も、風にあおられて落ちていきました。そして、下を歩いていた先輩の上に』

 消えてしまいたいと願い――透明人間になってしまった。

 本当に、消えてしまった。

 そうして少女以外の全てが、僕の頭上に落ちてきた。

 僕は、どうしていいか分からなかった。

 科学部同士でイタズラをするのはよくあることではあるが、それにも限度というものがある。

例えばこんな時間に部室に忍び込んでいることが学校にバレれば、部の存続に関わる。

 だから、脅かすことはあっても騒ぎになるようなことはしない。

 それが、僕らの中での暗黙のルールだった。

 わざわざ下着を用意して、キーボードに細工をして、そしてこんな凝った人物設定をする。

 そんな面倒なことをする人間が、部内にいるというのは想像しにくかった。

 ただ単に身内を笑わせるためだけに、ここまで頭をひねるというのは、ちょっと僕ら科学部の嗜好からは考えられないのだった。

 木戸が呟いた。

「戻りたい?」

『いいえ』

 その反応は、早かった。

 用意していたみたいにキーが動いた。

 さらに、木戸が続けざまに問いかける。

「後悔はないんだ」

『はい』

「でも、助けて欲しい」

『はい』

「どうすればいいか分からない」

『はい』

 木戸は立ち上がった。

 携帯を取り出して、電話をかけ始める。

「もしもし、あ、四谷? ああ、わりいわりい何度も。あのさ、……本当にイタズラしてないんだな? ……ああ、うっせえな、嘘だったら牛丼おごれよ。ああ、分かったよ、本当だったら牛丼おごってやるよ。おう、おう、じゃあな」

 木戸が電話を切る。

 なんで牛丼だよとか思うのが半分、木戸と四谷は本当に牛丼好きだなと呆れるのが半分。

「決まったな」

 木戸が、立ったまま僕に言った。

「は?」

「でかいことだよ」

 でかいこと――今年が高校最後である僕ら科学部がやらなければならない、でかいこと。

「まさか、」

 僕は、木戸のバカ面を見て、唖然とした。

木戸が分厚い胸を張って言った。

「俺たち科学部の力で、英美里ちゃんを救おう」


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